池田町観光協会

池田駅開業120周年記念の取り組みを紹介します!

釧路から建設の進んだ鉄道は、1904年(明治37年)には現在の浦幌駅~利別駅間が開業しました。同年8月12日には豊頃駅が、12月15日には池田駅・利別駅が開業して、今年で開業120周年を迎えます。 開業120周年にあわせて、感謝の気持ちを込めて、池田駅では鉄道の街として栄えた歴史を振り返る「鉄道写真・パネル展」を12月1日より開催します。また、池田駅・利別駅・豊頃駅では開業120周年を祝う横断幕の掲出し、開業120周年を迎える12月15日には池田駅で記念セレモニーの開催や貴重な「鉄道ジオラマ」を展示するなど、様々な取り組みを実施します。 ぜひこの機会に、根室本線に乗車して池田駅・利別駅・豊頃駅へお越しください!

1 池田駅の歴史を振り返る「鉄道写真・パネル展」を開催します!

池田町には機関区が設置され、池田駅は根室本線と池北線の分岐駅として重要な役割を担うなど池田町は「鉄道の街」として発展し、鉄道は十勝で生産された多くの農産物を北海道外へ運ぶことで、十勝の発展を支えてきました。
鉄道が街の発展を支えてきた歴史を振り返って頂くため、今は見ることができない昔の池田駅の写真や、歴史を感じることができるパネル等を12月1日から1月15日まで池田駅待合室に展示します。ぜひこの機会に池田駅へお越しいただきまして、貴重な鉄道写真や鉄道の歴史を知ることができるパネルをご覧ください。

■展示期間2024年12月1日(日) ~ 2025年1月15日(水)まで(予定)
■展示場所根室本線池田駅 待合室内

2 開業120周年を記念する横断幕を各駅に掲出します!

池田駅・利別駅・豊頃駅の開業120周年を記念する横断幕を、12月1日から1月15日まで3駅で掲出します。各駅にお越しいただき、記念デザインの横断幕をぜひご覧ください。

■掲出期間2024年12月1日(日) ~ 2025年1月15日(水)まで(予定)
■掲 出 駅根室本線池田駅、利別駅、豊頃駅

3 池田駅待合室に、「鉄道ジオラマ(Nゲージ)を展示します!

鉄道写真パネルを製作した池田町在住の君島利彦様のご協力により、池田駅の開業120周年を迎える12月15日の1日限定で、根室本線と池北線の乗換駅であった池田駅の東側の広大な敷地にあった、機関車の運用や整備・検査・修繕などを行っていた「池田機関区」のジオラマ(Nゲージ)を池田駅待合室に展示します。 1913年(大正2年)の池田機関庫設置から1985年(昭和60年)3月の機関区廃止まで、池田町では最大で1000人規模の国鉄職員が働いており、池田町がかつて「国鉄のまち」として輝いていた時代を、国土地理院の航空写真や、国鉄OBの方々の話をお聞きし、池田駅開業120周年記念に向けて1/150サイズで作成した鉄道模型のジオラマとなります。 開業120周年を迎える12月15日には、ぜひ池田駅へお越し頂きまして、十勝の発展を支えた鉄道の歴史を感じることができる貴重な「鉄道ジオラマ(Nゲージ)」をご覧ください。

■展 示 日2024年12月15日(日) の1日限定
■展示場所根室本線池田駅 待合室内

4 開業日(12/15)に池田駅で記念セレモニーを開催します!

池田駅の開業120周年を迎える12月15日(日)には、池田駅にて記念セレモニーを開催します。 セレモニー当日は、池田町観光協会の協力により池田町銘菓のバナナ饅頭や、池田町名産のワイン(ホットワイン)・ぶどうジュースを、セレモニーを見学に来た方へお配りします。 開業120周年を迎える12月15日は、ぜひ池田駅にお越しください。

【池田駅開業120周年 記念セレモニーの概要】

■開催日時2024年12月15日(日) 13:00~13:30頃まで(予定)
■開催場所根室本線池田駅 待合室内
■開催内容 ・池田町長から池田駅長への花束贈呈
・鉄道写真パネルを製作した池田町在住の君島利彦様から、池田駅の歴史に関するお話
・傘踊り(池田町の郷土芸能)の披露 など
■セレモニー見学者へのおもてなし 池田町観光協会の協力により、セレモニーの開催時間に合わせて(12時~14時まで)、ご来駅の皆さまへ池田町銘菓のバナナ饅頭やホットワイン、ぶどうジュースをお配りします(数に限りがあります)。

【お問い合わせ】

池田町役場地域振興課商工観光係TEL:015‐572-3218
2024年12月15日(日) 13:00~13:30頃まで(予定)
JR北海道釧路支社営業グループTEL:0154-25-1683(平日9:00~17:00)

いけだ鉄道物語

ありがとう池田駅・利別駅開業120年

◎池田駅開業時に配置された、3000型テンダー式蒸気機関車(参考写真)

1) 鉄道建設計画

新橋-横浜間に鉄道が開通したのは1872年(明治5年)9月12日です。それから20年後の明治25年2月北海道庁は「北海道中央鉄道敷設計画」をたてました。空知太(砂川市)から永山(旭川)へて、そして空知川から十勝川上流(新得町)に出て、大津(豊頃町)をへて釧路を経由し、根室にいたる鉄道工事計画でした。

翌明治26年北海道庁北垣国道長官は「北海道の拓殖に鉄道敷設は、最大にして急を要する事業である。」として『北海道開拓意見書』内務大臣に具申、明治27年第6回帝国議会に提出され、明29年「北海道鉄道敷設法」が公布され北海道の鉄道敷設が始まりました。敷設法第2条には「北海道予定鉄道路線ハ左ノ如シ十勝国利別ヨリ北見国相ノ内ニ釧路国厚岸ヨリ根室国根室ニ至ル鉄道」と明記されました。

当初の予定では、釧路線(根室本線)は道東の海岸線を通る、釧路港-十勝太(豊頃町)-利別太(池田町)-帯広ルートでした。同庁は十勝川河口に都市建設の構想をもち、十勝太に市街地形成を計画していました。十勝ルートの選定には、地形、地質、経済効果、資材の入手方法などを調査し、白糠丘陵の西端をさけるかたちで十勝太経由から浦幌町経由のルートになりました。

2)十勝線と釧路線

◎釧路線工事中の池田駅構内(明治37年12月) 池田町史より

旭川から富良野を経由し帯広に至る線路を「十勝線」とし、釧路から池田を経由し帯広に至る線路を「釧路線」として明治30年6月に十勝線の着工。明治33年5月から釧路線の工事が始まりました。

十勝線釧路線
明治33年上富良野一下富良野間開通釧路一白糠間開通
明治34年鹿越一落合間開通
明治36年 3月白糠一音別間開通
明治36年12月音別一浦幌間開通
明治37年 2月日露戦争勃発
明治37年 8月浦幌一豊頃間開通
明治37年12月15日豊頃一池田・利別開通
明治38年10月利別一帯広間開通
明治40年 9月狩勝隧道が完成
落合-帯広間開通

鉄道が開通した明治37年の池田駅の風景は『池田町史』によれば、「池田駅の前の広場は一面谷地坊主の湿地帯であった。」と記述があります。

3)池田駅の誕生

池田町は開墾が始まった1896年(明治29年)に徳川慶喜の五男・池田仲博侯爵(旧鳥取池田藩)が利別川と十勝川の合流点付近に「池田農場」を開設していました。釧路線開通時その農場内に駅ができたことで『池田駅』と名づけられました。

池田駅・利別駅まで釧路線が延伸された明治37年には、三国干渉後、満洲(中国東北部)と朝鮮半島の支配権を巡る争いが原因となって日露戦争が勃発し、国庫財政がひっ迫し十勝線(旭川-帯広)の最大難所であった、狩勝隧道(953m)の工事が中止となり、完成は日露戦争終結後の明治40年となりました。

開業当時池田駅前は荒涼とした谷地坊主の湿地帯で店といっても米倉荒物店と花田菓子店の2件ぐらいしかなく殺風景だったそうです。その頃の市街地は利別太(南4線清水橋手前)であり、利別駅が池田駅よりも重要な駅でした。

◎開業当時の池田駅前風景 池田町史より

4)開通祝賀会

明治37年12月15日、釧路線の豊頃-利別間が開通した日に「開通祝賀会」が利別尋常高等小学校で盛大に開催されたと池田町史に記載があります。
◎旧鳥取藩主池田仲博侯爵

本日岩田栄太郎ト午前二時半ヨリ起キ仕度クナシ、四時頃出発シ池田ニ行キタリ、岩田ハ一番 列車ニテ釧路ニ行キタリ、小生ハ利別小学校ニ鉄道開通祝賀会に参列セリ。
◎池田駅開通祝賀会参列の様子が記載されている斉藤徳次郎日記より

市街地の変遷 利別太から利別駅へ

池田町は、明治32年5月に「凋寒他十三カ村戸長役場」を利別太に設置していました。明治35年9月には、本別など五カ村が抜け「凋寒他七カ村戸長役場」と呼ばれていました。戸長役場は利別川と十勝川が合流した十勝太におかれ中心市街地を形成していました。道路や鉄道が整備されていない時代にあっては、徒歩や馬、水運がおもな交通手段であったため戸長役場も河川交通の要衝である十勝川と利別川の合流地点に設置されていました。鉄道が開通し、十勝太にあった市街地も、利別駅の鉄道利用者の増加に伴い、利別駅周辺に移り、戸長役場も利別駅南側に移転し、明治時代終わりごろまで中心市街地をつくっていました。

6)米倉屋(レストランよねくら)と黒沢屋(旧黒沢商店)

釧路線(帯広-釧路)が開業する明治38年には池田駅前の米倉屋(レストランよねくら)に構内営業(駅売り)の許可がおり、明治41年には同じく池田駅前の黒沢屋(現駅前自転車置き場)に構内販売の許可がおり、池田駅前の発展の礎となりました。明治40年9月8日旭川-帯広間の十勝線が全線開通し、釧路から旭川まで鉄路がつながりました。十勝線と釧路線が連結し全線を「釧路線」と呼称することになりました。

◎バナナ饅頭と米倉屋の来歴

バナナ饅頭を販売する米倉屋(後の株式会社米倉商店)は、JR北海道根室本線池田駅の正面に位置しています。バナナ饅頭が造られた1905年(明治38年)頃、北海道では釧路から始まった鉄道が一旦池田まで開通したところで、池田駅開業に伴い、それまで呉服や雑貨を扱っていた米倉三郎が駅弁屋を始めた。米倉は当初「親子弁当」を販売していたが、新商品として饅頭を販売した。当時のバナナは庶民にとって高嶺の花。大変ぜいたくな食べ物だった。そういう時代に「せめてバナナのようなお菓子を提供したい」という思いでバナナ饅頭を売り出した米倉屋の愛情が伝わってくる。当時は、駅構内で数人の立ち売りを使って売っていた。Wikipediaより引用

7)網走線(旧地北線)の建設

明治29年公布の「北海道鉄道敷設法」では網走に向かう鉄路は厚岸-網走間を建設予定地としていましたが、明治37年に勃発した日露戦争の戦費調達のため、厚岸-網走間の鉄道建設が凍結されてしまいました。日露戦争終結後、十勝国と北見国を結ぶ産業開発路線として重要視され、池田-野付牛(北見)間の鉄道建設が路線変更されることになりました。池田町史によれば、地元有力者の働きかけとして旧鳥取池田家の相談役北垣国道が北海道庁長官の氏であったことや、池田町出身の新津繁松氏の働きかけが大きかったと記載があります。

◎旧鳥取池田家の相談役北垣国道が北海道庁長官

8)網走線から網走本線、池北線そしてふるさと銀河線へ

明治40年3月から網走線の工事が始まりました。網走線の工事の様子は『北海道鉄道史』に以下のような記載があります。

網走線ハ十勝国利別ニ於イテ十勝線ヨリ分岐シ、足寄を経テ釧路国ニ入リ、陸別ヲ過ギテ利別川ヲ渡リ之ヨリ峻嶮ノ地ニ入リ釧路北見ノ国境ヲ越エ訓子府原野ヲ縦貫シテ野付牛ニ至リ美幌ヲ経テ網走ニ達スル。(中略)大正元年10月5日開通シタリ。

十勝国側の始発駅は当初「利別駅」が計画されていましたが、利別駅に到達する際に利別川に長大橋梁を敷設しなければならないことなどから利別駅から池田駅へと建設計画が変更され、池田駅は網走線(旧池北線)と釧路線(現根室本線)のターミナル駅となり、以後池田町は「鉄道の町」と呼ばれるようになりました。網走線は大正元年、網走まで延長され、「網走本線」と改称されました。オホーツク海岸に達した最初の鉄道となりました。しかし、昭和7年、新旭川―野付牛(北見)間を走る石北線の全面開通とともに、道央と北見地方との間のメインルートはこれに移り、池田―野付牛間はローカル線となりました。昭和36年、北見―網走間を石北線に編入して石北本線とし、池田―北見間を池北線と改称しました。昭和60年、特定地方交通線に選定され廃止候補線となりましたが、平成元年、「北海道ちほく高原鉄道」に移管され、その後は、「北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線」として、第三セクターでの運営が行われましたが、平成18年4月に経営悪化により廃止となりました。

9)行啓と行幸

◎昭和29年8月16日昭和天皇・香淳皇后陛下の巡幸(駅長:野口八郎)

「行啓」とは皇后、皇太后、皇太子、皇太子妃などの皇族が町を訪問することを意味する言葉です。「行幸」は天皇陛下が町を訪問することを意味しています。飛行機の無い時代にあっては鉄道が重要な移動手段であり、天皇陛下並びに皇族方が池田町にやってくることは町を挙げての祝賀行事であり、その重要な役割を担ったのが鉄道でした。明治44年9月25日皇太子殿下(大正天皇)が行啓し、池田・新得間の上下線を8150型機関車がお召列車として運転されました。また、大正11年7月17日には皇太子殿下(昭和天皇)が北海道陸運大演習に大元帥として行啓し、池田機関区は陸別-池田間片道をお召列車運転、9600型蒸気機関車で西尾機関士大任を果たす「駅には林雄次郎外15名の者が列立拝謁を許され、その他各種団体、学生が奉迎した。」と池田町史に記載があります。昭和11年9月29日には陸軍特別大演習のため昭和天皇が行幸しました。昭和29年8月16日には昭和天皇・香淳皇后陛下の巡幸がありました。これは戦後巡幸と呼ばれ、昭和天皇が戦後の日本国内を視察し、復興に携わる国民を激励したり、戦災者や戦没者遺族を慰問したりするために実施されたものです。池田駅には奉迎場が設置され、天皇皇后両陛下奉迎のため多くの町民がお出迎えのため集まりました。

10)町の名前は池田駅が由来!

◎池田町の名前の由来となった池田農場の農場主旧鳥取池田藩主池田池田仲博侯爵

池田町は、明治32年5月に「凋寒他十三カ村戸長役場」を利別太に設置していました。明治35年9月には、本別など五カ村が抜け「凋寒他七カ村戸長役場」と呼ばれていました。大正2年4月1日、凋寒村(しぼさむむら)から村の呼称が川合村(かわひむら)と改称されました。変更の理由は従来のシボサム村では「しおれると寒い」という漢字があてられ、発展の途上にある村名としてはふさわしくないという村民の声があり、村の発祥の地利別太が十勝川と利別川の合流点にあったことから「ふたつの大きな川が合うところ」という地理的位置から「川合村」となりましました。大正4年8月には川合村役場は利別駅南側から池田市街地区(南4線東216番地)に移転してきました。大正14年4月22日町制施行への申請を行い、大正15年6月25日許可がおり「川合村」から「池田町」へと町名を改めました。池田町史には「明治37年に利別まで釧路線が伸び、翌38年10月帯広まで釧路線が開通するや、住民は川を捨てて汽車の走ると利別の新市街へと移住し、利別太は旧市街としてすたれ、今日では全く往古の原野と帰してしまった。そして、やがて明治43年9月に陸別・池田間が開通し池田が釧路線上下と網走線の三叉点となるや池田市街の将来を期待して、さらに人々は利別から池田へと移住して来たのである。こうして池田は明治時代から鉄道によって市街地が二転、三転した街であり、また池田は今日まで鉄道によって繁栄してきた街であるともいえる。」と記載があります。

11)鉄道による池田の発展

釧路線・網走線の開通により池田町には多くの人や物が行きかうようになり、日本皮革株式会社池田製渋工場(明治44年11月)、マッチの軸をつくる赤松製軸所、阿部製軸所、レンガ工場が建設され。大正8年1月操業の富士パルプ池田工場、大正9年11月操業の大正製麻株式会社池田工場などが企業進出し工業都市池田の観がありました。また人口増加により、大通りに商店街が形成され多くの商店が軒を並べるようになりました。池田駅前には鉄道を利用する旅行者の旅館や料亭が立ち並びました。また、鉄道により農産物の大量輸送が可能になり、第一次世界大戦の好景気のなか豆類価格が高騰し、雑穀輸出も町や駅をおおいに賑わしました。

12)太平洋戦争と池田・利別駅

◎昭和17年6月10日 千葉正夫・池田正弘両駅員の出征記念写真 池田町史より

昭和6年9月の満州事変、昭和12年7月の日中戦争から昭和25年太平洋戦争の終結まで池田駅も戦争に翻弄されました。戦争遂行を最優先とする国家総動員令の中で蒸気機関車も運転手も石炭までも不足する中で「輸送報国」の合言葉のもと、輸送確保に奮闘しました。太平洋戦争が始まった翌年の昭和17年には中国大陸での輸送業務を見据え千葉鉄道隊が寒地訓練のため池田機関区に派遣され、寒地訓練が始まりました。昭和19年3月に「決戦非常措置法」が発令され、旧制帯広中学校(柏葉高校)の生徒が池田機関区に動員され、石炭の積み下ろし作業に従事し、池田中学校の生徒は車庫や構内の清掃作業に動員されました。大戦末期には本土空襲に備え機関車を守るため、フンベ山麓に引き込み線を敷設し、機関車を毎朝毎夜疎開させていました。昭和20年7月14日早朝にはアメリカの戦闘機グラマンが清見ケ丘から低空で侵入し池田機関庫が銃撃され、2名の職員が殉職しました。池田駅からは多くの若者が戦地に赴きました。

13)戦後の池田駅

長く続いた戦争が終わり、鉄道事業も復興の道を歩み始めました。多くの車両が失われ、要員、燃料も不足し、その歩みは遅々としたものでした。昭和26年運輸省鉄道総局設置されました。GHQ=アメリカ占領軍の占領政策のもと貨物優先の戦時輸送体制から、民需輸送への転換を図らなければならない時代を迎えていました。この頃の国鉄全体の営業係数138.9、赤字累計403億円にも膨らみました。池田駅、機関区、保線区でも合理化や人員整理に反対する労働運動が盛んになりました。昭和29年、池田駅開業50周年記念事業が昭和39年には60周年記念事業が盛大に挙行されました。60周年記念事業では、池田中学校の生徒を招き、1日駅長、1日助役、1日出札係などを務めました。

14)池田機関区の蒸気機関車たち 山親爺 D51

明治37年の開業当時、池田機関庫に配置された蒸気機関車は米国製の「3000型」タンク式蒸気機関車と「7200型」と呼ばれるテンダー式蒸気機関車でした。大正時代になっても蒸気機関車すべて米国製で「9200型」「9300型」が12両配置されました。大正10年、蒸気過熱器を装備した川崎造船所製の「9580型」国産蒸気機関車が配置されました。大正11年には同じく川崎造船所製の「クンロク」(キューロクと呼ぶ愛称が一般的ですが池田機関区ではクンロクと呼ばれていたみたいです。)の愛称をもつ「9600型」国産蒸気機関車が配置されました。

◎9600 型蒸気機関車 山親爺、クンロクの愛称を持つ池田機関区で多く運転された機関車の一つ

昭和28年には9600型の後継車両として、「D60型」が10両、「D50型」が2両、「D51型」(愛称デゴイチ)が1両配置されました。昭和42年には池田機関区に29両の蒸気機関車が配置され、蒸気機関車の黄金期を迎えました。D51型蒸気機関車は貨物をけん引する機関車として開発されましたが、勾配の多い根室本線では旅客用として活躍しました。

◎0 系新幹線を設計した、鉄道技師島秀雄が設計した D51 型蒸気機関車 通称デゴイチ。

昭和47年には、ディーゼル化に伴い、蒸気機関車はその姿を消し、池田機関区の最後の蒸気機関車「9600型蒸気機関車171号機」は、今も帯広市の愛国交通公園に静態保存されています。

15)ディーゼル化の時代(無煙化)

明治時代から昭和初期にかけて建設された国鉄の路線は、ほとんどが蒸気運転でした。昭和34年、動力近代化計画は、国鉄の保有する鉄道車両の動力を近代化し、エネルギー効率が低く燃料費がかさみ、大量の煙のために安全性や快適性に問題がある蒸気機関車を計画的に廃止・淘汰する(動力源の近代化)し、旅客車については原則として電車もしくは気動車(ディーゼル機関車)に置き換える(動力方式の近代化)という内容でした。昭和30年池田機関区にも「キハ05型気動車」が配置されました。昭和37年2月1日には帯広―札幌間に気動車急行「十勝」が運行を開始し、同年5月1日には帯広-釧路間で「準急ぬさまい」が運行されました。また、10月1日からキハ80系ディーゼル特急「おおぞら」が釧路まで延長運転を始めました。「特急おおぞら」(札幌-釧路)「特急おおとり」(凾館-釧路・網走)の登場により、札幌-池田間が8時間から4時間となりスピードアップの時代を迎えました。

◎昭和39年10月1日特急おおとりが運行池田駅に到着 石井明助役が歓迎の出向に出席

16)池田駅 駅番号 K36

◎昭和29年8月16日には昭和天皇・香淳皇后陛下の巡幸時に撮影された旧池田駅

現在の池田駅は昭和36年1月3日竣工で鉄骨ブロック平屋造。総面積は432.7㎡。総工費は1000万円でした。ワインのまち、池田町にふさわしい池田の玄関として駅舎が完成しました。平成22年4月20日からは池田町出身のアーティスト・吉田美和さん(DREAMSCOMETRUE)のオルゴール音を改札音として使用が開始されました。ベースの中村正人さんが町を訪問したとき、「池田のどこかで曲が流れたら」と話したことがきっかけで企画されました。「晴れたらいいね」は、吉田美和さんが町の景色をイメージして作詞したという曲。NHK連続テレビ小説「ひらり」の主題歌に起用されヒット曲です。「ALMOSTHOME」は平成20年発表で、明治乳業「明治北海道十勝チーズ」のCMソングでした。

17)利別駅駅番号K35

◎旧利別駅舎 利別川鉄橋架け替え前は570m池田側に設置されていた

利別駅は、明治37年12月15日の釧路線開通から10日後の12月25日です。昭和42年10月に利別川鉄橋架け替え工事に伴い、新利別駅を旧駅舎より幕別寄りに570m移転し現在の駅舎が建設されました。昭和46年10月には根室本線がCTC化(列車集中制御CentralizedTrafficControl)いわゆる、列車運行の指示・命令権を持つ指令員が制御所で信号機の遠隔制御を行い列車の運行を一元的に管理するシステム化により、無人駅となりました。

◎池田駅小史

西暦 和暦 月日 町名 内容
1904 明治 37 12月15日 凋寒村 北海道官設鉄道利別 - 浦幌間開業にともない設置 一般駅 池田機関庫設置
1905 明治 38 4月1日 凋寒村 北海道官設鉄道が官設鉄道(鉄道作業局)に編入
1910 明治 43 9月22日 凋寒村 網走線(後の網走本線・池北線)当駅 - 淕別駅(陸別駅)間が開業。駅舎増築、跨線橋設置
1913 大正 2 6月2日 川合村 池田機関庫設置(北海道鉄道管理局の事務上制定)
1917 大正 6 5月 川合村 池田電気(後に富士電気等の幾つかの合併を経て北海道電力)が駅裏南側に火力発電所を開設
池田電機専用線敷設(時期不明)
1918 大正 7 8月 川合村 池田倉庫が創業、駅表北側に倉庫を作り専用線引込
1919 大正 8 1月3日 川合村 富士パルプ(後の富士製紙)池田工場開業
1919 大正 8 1月3日 池田町 富士パルプ(後の富士製紙)専用線運用開始
1930 昭和 5 7月15日 池田町 富士製紙池田工場廃止。専用線廃止
1945 昭和 20 7月14日 池田町 池田機関区空襲。8634大破し2名殉職
1950 昭和 25 2月15日 池田町 帯広客貨車区池田支区設置
1961 昭和 36 1月3日 池田町 駅舎改築
1961 昭和 44 4月1日 池田町 帯広客貨車区池田支区廃止。池田運転支区設置
1984 昭和 59 2月1日 池田町 貨物の取り扱いが終了
機関区廃止に先立ち釧路車両管理所へ
保有車両を移管
1985 昭和 60 3月14日 池田町 荷物の取り扱いが終了 池田機関区廃止
1987 昭和 62 4月1日 池田町 国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅となる
1989 平成 1 6月4日 池田町 池北線が北海道ちほく高原鉄道に転換され、ふるさと銀河線となる。
1996 平成 8 8月 池田町 石勝線・根室線高速化工事に伴い同年度に構内改良
2006 平成 18 4月21日 池田町 北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線廃止。
2010 平成 22 4月20日 池田町 池田町出身のアーティスト・吉田美和
(DREAMS COME TRUE)のオルゴール音を改札音として使用開始
2016 平成 28 10月3日
11月5日
池田町 1番線のホーム段差を解消するため、1番線を閉鎖して線路の路盤を約20cm掘り下げる工事を実施
2024 令和 6 12月15日 池田町 開業120年を迎える。