池田町観光協会

COLUMN

2018/10/3
ワイン造りは、ひとづくり まちづくり 未来に続け、池田観光
ワイン造りは、ひとづくり まちづくり 未来に続け、池田観光

 池田町は、北海道内では数少ない、和名の町名です。
大昔はアイヌ語で「セイ・オ・ロサム」、貝殻があるところという意味の地名でした。この地名を漢字で「凋寒・しぼさむ」と表記しました。
 しかし、「凋んで、寒い」では村は発展しないだろうと考え、大正2年に、十勝川と利別川が合流するところという意味で「川合・かわい」村となりました。
 大正15年には、鉄道の開通により、釧路線(今の根室本線)と網走線の分岐駅になる池田駅が池田町の中心市街地となり、町名も現在の池田町になりました。
 この池田駅の駅名の由来は、駅の近くに、旧鳥取池田藩の池田仲傳侯爵が所有した「池田農場」があったからだと言われています。
ちなみに鳥取池田藩の池田侯爵のご先祖様、池田信輝は関白豊臣秀吉に仕え15万石の大名となり、その後、徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦で功をなし、播磨国姫路二十五万石を拝領し、あの世界遺産、姫路城を築城しました。もっと言えば池田仲傳侯爵は、あの大河ドラマ「西郷どん」で松田翔太さんが演じる徳川慶喜の5男だそうです。

 昭和6年には、池田農場の人々が中心となって、今の清見ヶ丘公園に2000本の桜を植えました。
池田の人々は、春の植え付けが終わった5月に、清見ヶ丘の桜を眺め、短歌を詠んで、お酒を酌み交わし、鋭気を養ったそうです。
 十勝でも最古参の短歌会が池田町にあり、池田牛蘭社(ぎゅうらんしゃ)と呼ばれていました。この牛蘭社のひとり中島竹雄がこの桜の植樹を、「碧洋と相照らし合う真心を植え付くるなり二千本の桜」と詠っています。
 池田の人々が植えた桜は、その後、十勝の三大桜の名所のひとつとなって、多くの方が池田町に訪れたそうです。これが「池田観光」の幕開けです。

 池田町は、「のびやかな農村らしい生活と風物詩を大切したい」という気持ちから、稲作にかわる転換作物として、寒冷地農業に適した、山葡萄を栽培し、昭和38年に「果実酒類の試験醸造免許」を取得し、その山葡萄から十勝ワインを造りだしました。

 池田町は、ワイン造りと一緒に人づくりもすすめてきました。
当時、海外旅行が高根の花だった時代、毎年、商工会や農家の若者や若手役場職員が、ワインの先進地、ヨーロッパに出かけ、さまざまな、文化や技術を吸収してくる「ワインツアー」が開催されました。
 このワインツアーに参加した、商工会の青年部が中心となって、昭和50年に清見ヶ丘公園で第1回桜祭りが開催されました。この桜祭りでは、今のワイン祭りとほぼ同じ内容の「ワイン飲み放題」「牛肉食べ放題」が大ヒットし、道内外から多くの観光客が訪れることになりました。これが「池田町観光」
の黎明期です。

 翌年からは大好評だった「春の桜祭り」の秋バージョンとして、「秋のワイン祭り」も開催することになりました。
 池田町は「牛の丸焼き」の発祥の地で、昭和49年にワイン城が落成し、完成祝賀の町民大パーティーを行った際に、役場の若手職員が考え出したものだったそうです。
 今年で45回を数えるワイン祭りもこうした、先人たちのフロンティアスピリットがつくりだしたものだと思いますし、この精神を大切に受け継ぎ守ってきた人々の足跡だと思います。

 ワイン造りはひとづくり、そしてまちづくりの精神は、今も昔も変わっていません。そんな気持ちで、池田町はどんどん新しいことにも挑戦していきたいと考えています。

 池田町はこれからも十勝ワインを核とした、ひとづくり・まちづくりをすすめてゆきたいと思います。

 これからの池田町観光に期待してください!


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